博多 の 夷(えびす) ②沖浜恵比須神社
大きな神社には 頓宮 (とんぐう)とか 御旅所 (おたびしょ)
とか言われる場所があります
年に一度の御神幸の時に 神輿はここで休みます
なぜそういった場所に 決めるかと云えば
そこが
伝承上ゆかりの深い場所であるとか
祭神に近い神が鎮座される場所であるとかだからです
筥崎八幡宮 の頓宮は 浜宮 と呼ばれ 大鳥居 高燈籠のある 側にあります
黒田四代藩主 綱政 が寄進したものです
それまでの頓宮はと云えば
博多大浜の 《 沖浜恵比須神社 》でした
毎年 盛大な神幸渡りだったようです 毎回 博多の課役として
新船三艘を造り それに三神を乗せ 衣冠の装いをした神官達が
音楽を響かせながら 海を渡っていったといいます
貝原益軒 は 筑前国続風土記 の中で
沖浜恵比須神社 のことをこう書いていました
・夷社
博多の北の海辺濱口に在。沖浜の夷の社是なり。
この社も 昔は 今の社地より東南の方に在しならん
今は海辺もはるかに築出したれば
今の社のある所は昔の海中なるべし
昔は 箱崎八幡宮の御旅所にして八月十四日に此所まで
神輿渡りたまひしという。
櫛田祇園の神輿も六月七日此所に渡御ありて
十三日に本社かへり奉りしと云。
筥崎宮 と 櫛田宮 の 二つの大社の頓宮 であった
〈 浜沖恵比須神社 〉
今は 朽ちかけ 鉄格子に囲まれた 神社になっていますが
博多の夷 の本家本元は
この 沖浜宮 だったのです
そもそも 筥崎宮も 八幡宮の元宮 〈大分宮〉の頓宮であったのです
延喜二十年(921年)託宣がおり お汐井とりの場所として
ここに新宮を建てたといわれています
百嶋神社考古学では 正八幡 は 櫛田の 大幡主神 だとします
大幡主 と 事代主 深いところで 繋がっていたのでしょう
かたや 近年(昭和27年)出雲大社から 大国主 を 勧請し
神社庁の看板神社となった 〈十日恵比須神社〉
なんでも揃えれば 良いというものではないでしょうに
かたや 誰も訪れる人も無く 朽ち果てた 〈沖浜恵比須神社〉
時代の流れといえばそれまでですが
何か 間違っているように思えるのは 私だけでしょうか。
櫛田宮も 筥崎宮も どんな風に 考えているのでしょうか