博多 の 夷 (えびす) ①十日恵比須神社
夷神社・戎神社・胡神社・蛭子神社・恵比須神社・恵比寿神社
恵美須神社・恵毘須神社
みんな (えびすじんじゃ) と呼びます
祀っている祭神は 事代主神 (ことしろぬしのかみ)です
いろんな 書き方が あるのは この神 の 出自 のせいでしょうか
博多で 恵比須神社と云えば
〈十日恵比須〉と誰もが 言います
毎年 1月8日から11日 まで の 正月大祭 では
かなりの人出で 賑わいを見せます
夷(えびす)と呼ばれる神が
いつの間にか 商売繁昌の神様に 成り下がってしまっています
真実の 博多の夷 とは 何なのか
まずは 十日恵比須神社の真実から 調べてみました
福岡神社参拝帳 に 由来と沿革 がこう書かれています
十日恵比須神社は、
天正十九年(1591年)正月三日、
香椎宮大宮司武内家隠居、五右衛門と申す者、
香椎宮、筥崎宮に参拝し、浜辺通り潮先において
ゆくりなく夫婦恵比須神の御尊像を拝し
恐懼奉戴して自宅に奉斎せしが、
これより武内五右衛門商売繁昌するに至り、
いよいよ御神徳をかしこみ、翌文禄元年正月十日新社殿を営み、
十日恵比須と称し祭祀を厳修す。
これより世人聞き伝え庶民の賽詣年と共に殷盛となり、
天和元年(1681年)には更に御社殿を壮麗にし、
益々社運の隆昌を見る事と相成った。
更に明治四十年(1907年)、広く崇敬者の浄財に依り御社殿の改築、
同四十三年に閑院宮御台臨の建物を買収し、開運殿と名付け
開運お座を開きしより御神徳を仰ぐ参拝者激増の一途をたどり、
ついで昭和二十七年十月、御父神、大国主大神を出雲大社より勧請。
昭和四十三年に宏大な現社殿を新築。同年七月神社本庁より
「別表に掲げる神社」に加列相成り、
現今西日本屈指のえびす祭りとして暄伝せられるに至った。
武内家 は 武内宿禰 の末裔だといわれています
香椎から 博多の橋口町に移り 古くから 漁業を営んでいました
漁の神様である 恵比須様への 信仰心が篤かったのでしょう
さて 十日恵比須神社 は 現在 県庁に隣接する東公園の脇にあります
沿革を読むと
あたかも 創設から この地に鎮座しているかのように書かれていますが
それは 間違いです
五右衛門が 祠を祀ったのは もっと海寄りの 筥崎の松原あたりでした
寛政年間の古書にはこう書かれています
『この 夷社は 〈松原恵比須〉と 呼ばれ 元来 博多澳の恵比須なる由。
櫛田社人が支配せし博多七社の恵比須の内の一つなり。
当村(那珂郡)神主の支配なり云々』
また 貝原益軒 の 筑前国続風土記 には
『崇福寺の東にあり 澳の恵比須とは事代主命を祭る小社』
と書いています
つまり 社殿は 200年近く あまり目立たない
崇福寺東の松原の中にあって 参詣するものも
一部の漁業関係者だけだったのだろうと思われます
明治9年 東公園が できた頃 博多の実業者達のはからいで
松原恵比須 の 小社 は 今の場所に移されました
無資格社 だったので 正月十日の祭典以外は
ほとんど 参拝者もいなかったといいます
恵比須像も 普段は 武内家に安置され 正月祭典の時だけ
運ばれていたようです その後 武内本家が潰れたりして
博多の人は 貧乏恵比須 などと 悪口を叩いたといいます
明治34年ごろ 東公園に 元冦記念碑ができたころ になって
ようやく 社務所もでき 社殿も整い
恵比須像も常時安置することができたといいます
今の賑わいは つい最近(大正以降) になってからの事なのです
博多の夷 の話
今度は 筥崎八幡宮もからんだ
もうひとつの 夷社の話 に進みます