春と修羅
1922年(大正10年) 4月8日
詩人は 浅い春の北の大地を とぼとぼと 歩きながら
自らの 心模様を 言葉に変えました
心象の はいいろはがねから
あけびのつるは くもにからまり
のばらのやぶ や 腐植の濕地
いちめんのいちめんの 諂曲(てんごく)模様
(正午の管楽(くわんがく)よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりの にがさ また青さ
四月の気層のひかりの底を唾(つばき)し
はぎしり ゆききする
おれは ひとりの修羅 なのだ
・・・・
もう 何度も読んだ
宮澤賢治 の 『春と修羅』の詩です
ひとりの修羅として この世に立ち向かう時
憤り と 怒り と 口惜しさ を 反芻しながら
唾を吐き 歯ぎしりをしながら 歩くしかない
そんな 心象が描かれています
冬は必ず春となります しかし 来る春は
いつも 明るい希望に満ちた春ばかり とはいえません
5年前 の 4月
私は リハビリ病棟の窓の外から
桜の散りそめる風の姿を追っていました
テレビでは 連日 3月11日 の 悲しみが伝えられていました
慣れない車椅子を右手で引きずりながら
まがりなりにも 生きている自分と
大切な人を失くし 哀切の日々を送る人達のはざまで
私も ひとりの修羅だったのでした
遅い桜が 満開となりましたが
福岡は 連日の雨です
《 見る人に 花も昔を思ひ出てて 恋しかるべし 雨にしをるる 》
西行の歌です
桜目線で この歌を解釈すると こうなります
今年も また 私に会いに来てくれたのですね
私も あの頃のことを 想い出しています
雨に濡れているのではありません
これは 私の涙です