筑前国分寺
筑前国分寺 に 行きました
福岡平野を 南に 走ると 太宰府市の入り口でもある
〈水城跡〉に着きます
そこから 500m 位 先に 国分寺前 という交差点に出ます
左の 四王寺山に向かって 上った辺りが 太宰府市国分地区です
1250年前 このあたりに 聖武天皇が 開基 となる
「筑前国分寺」「筑前国分寺尼寺」が造られました
11世紀の後半には 戦乱で 七重塔も 講堂も焼失しましたが
江戸時代には 草庵跡に 今の国分寺が創建されたとされています
本殿に座ると 正面に 本尊の 薬師如来座像 が
正面に左手に 十一面観世音像 が 配置されています
正面の欄干に 飛天の彫り物が 飾られています
弁財天を思わせるような 琵琶を抱えた 飛天です
古いものではないようですが 見事なものでした
天平13年(741年) 聖武天皇は 国家鎮護の為
「国分寺建立の詔」をだします
七重塔を建て 今光明教 と 法華経 を写経して 塔に納め
全国 66カ国に 国分僧寺 と 国分尼寺 を 一寺ずつ設置し
僧寺の名は 金光明四天王護国之寺
尼寺の名は 法華滅罪之寺 とすることという
壮大なものでした
この頃 飢饉や天然痘などの 流行などで
国土は疲弊していました
聖武天皇は その救いを 仏教に求めたのですが
実は その裏には 天皇をそこまで導いた 二人の女性がいました
一人は 母である 藤原宮子です
そして もう一人が 皇后の 光明皇后(光明子)でした
宮子 と 光明子 は 共に 藤原不比等の 娘(異母姉妹)です
この二人の 女性に大きな影響を与えた 一人の僧侶がいました
その名を 『 玄 昉 』(げんぼう) と言います
歴史において 大きな功績を残しながらも 闇に書き変えられ
悪人とされた 人物が何人もいますが
玄昉も その一人だと 私は思っています
太宰府に流され そこで亡くなった 菅原道真 は誰もが知る人ですが
同じように 太宰府に流され そして そこで 観世音寺 を作り
落成したその日に 殺された 玄昉 について 知る人は少ないのです
私は 奈良東大寺 も 奈良法華寺 も 全国の国分寺 の建立も
二人の女性を通して
天皇にその気にさせたのは 玄昉 だと思っています
玄昉 は 霊亀2年(716年) 留学僧として 唐に渡ります
18年間の修行を終え 唐の玄宗皇帝から
三品に准ずるとされ 紫衣を許されました
天平7年(735年) 経論五千余巻 や 仏像 を携えて
吉備真備らと共に 帰国します
後世 日本仏教の開祖として伝わる 最澄 や 空海 と雖も
唐での高僧としての評価は 玄昉の方が
上だったのではないでしょうか
持ち込んだ 経巻 の数が それを物語っています
のちの 仏教の拡大には 欠かせない 経典ばかりだったようです
聖武天皇を取り巻く 政局が大きく変わり 藤原仲麻呂は
玄昉を 観世音寺 開設の名目で 太宰府に送り そこで 殺します
史実は 〈藤原広嗣の乱〉の残党達の仕業にされていますが
恐らく それも 嘘です 書き換えられています
春の穏やかな 陽射しの中
戒壇院 裏にある 玄昉の墓を訪れました
手を合わせ 玄昉 の霊に向かって 私は喋っていました
お前さんが造った 国分寺に行ってきたぞ
菅公 や 広嗣 の 無念も合わせて 鎮めてやってくれ
阿刀玄昉 物部の血を引く お前の生きてきた道に 嘘はなかったぞ
どうか 安らかに 眠ってくれ
どこから 飛んできたのか 紋白蝶 が 一頭
私の前を 横切っていきました
赤 : 筑前国分寺
緑 : 玄昉の墓
by nonkei7332
| 2017-03-31 11:15
| 菅公・太宰府
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