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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

二人 の 旧藩士 ①



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現在の 〈博多券番〉 の 芸妓衆




明治の維新は

廃藩置県によって 多くの藩士を路頭に迷わせた

福岡黒田藩においても 然り 六千人 に近い藩士がいたが

ある者は帰農し またある者は 町人となって 慣れない手仕事を生業とした


博多には 明治24年 黒田旧藩士のみで組織される 「報古会」という

団体が結成された 藩主はいなくとも 黒田家訓を護り

旧藩士としての連携を密にするという相互扶助の団体であった

初代会長は 初代福岡市長の 山中立木 で 結成当時の会員は

三千人もいたというが ほとんどが 上級藩士出身であったようだ


家柄の低い 下級藩士の中に


米 倉 藤 三 郎 》という男がいた

米倉家については 定かではないが 維新後 一家没落したとされ

辻堂町の 承天寺境内で 仮家住いの赤貧暮らしをしていた

若き 藤三郎も 物心ついた頃には やむもなく 家を出て 渡世人となる



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明治25年の博多の町
市小路小学校(今の博多小学校)の上に
釜屋町 萱堂町 がある





博多には 釜屋町 や 萱堂町 (現在の奈良屋町界隈) という町があり

明治の始めから 多くの町芸妓がたむろする 色街だったという

ここを拠点にした 米倉藤三郎 は 大柄で ドスの効いたその風貌で

いつの間にか この町の顔役となっていったのである

やがて 釜屋町と萱堂町をつなぐ 筋に 多くの 芸妓置屋の連なる 花街

俗称 相生町が できた 〈相生の松〉に因んだ町名だという

当時 61名の芸妓が 相生町には居たが 翌年には 89名に増え

その勢いは 衰えることをしらなかった

町の一角に 相生花街の 顔ともいうべき 木造三階建ての 料理屋

『大寿楼』を 藤三郎 が 建てたころには 相生花街 の顔として

米倉藤三郎 の名前は 博多中に知れ渡っていたようである

明治22年 米倉 は 博多では 初めての 芸妓置屋の 組合組織

『相生券番』をつくり 自らその取締となって 花街を仕切っていった

長崎 丸山検番にヒントを得たという 〈線香代〉という 芸妓の花代と

時間制を創ったのも 米倉だといわれている

博多花柳界の大御所となった 米倉 は 芸妓達からは 恐れられ

その 独断暴君振りは 誰もが知るところであったようだ

そんな中 明治34年 夏 騒動は起きる 相生券番の芸妓総代を務めていた

小三(根本アキ) と 小滝(高橋タキ)が 米倉のワンマン振りに反旗を翻し

28名の名うての芸妓を引き連れて 千代町にあった 水茶屋券番に

移って行ったのだった 米倉の怒りは収まらず すぐに 手を打った

全ての料亭(料理屋) 茶屋待合(料理は作らず場所だけ提供しする座敷) に

もし 水茶屋の芸妓を呼んだ場合は 相生券番と中洲券番からは

芸妓は送り込まないという 報復手段だった

しかし 芸妓達はひるむことはなかった

何故なら 彼女達を後押しする


強力な 旦那衆が 後ろに控えていたからだ

ざっと 名前を挙げると



具島太助 ・・・ ( 当時日本三大財閥といわれた 具島財閥の当主 )

平岡浩太郎 ・・( 政治結社「玄洋社」の初代社長 )

安川敬一郎 ・・( 安川電機・九州工業大学の創始者 )

麻生太吉・・・ ( 現財務大臣 麻生太郎 の曽祖父。麻生グループの創始者 )

中野徳次郎 ・・( 伊藤と共に 筑豊の炭鉱王と呼ばれた )

伊藤伝右衛門 ・・(あの柳原白蓮を妻にした 筑豊の炭鉱王の一人 )

堀三太郎 ・・・( 直方の炭鉱王 )



筑豊の五大炭鉱王 や 福博の名士がこぞって 水茶屋券番に繰り出し

千代町の料理屋を貸し切り 水券芸妓を総揚げするなどして

大尽遊びを競うようにしたものだから 評判は拡がり やがては

相生券番と肩を並べるほどの 大券番となっていったのだった

後世 水茶屋券番の芸妓に『馬賊芸者』という 艶名がついたが

こんな騒動を乗り越えて来た 男まさりの度胸 と 切符の良さが

言わせたものだろう



その後 明治 大正 と 産業革命の波に乗って 博多花街は拡大を続け

空前の好景気に沸く大正時代には

〈相生券番〉〈水茶屋券番〉〈中洲券番〉〈新券番〉〈南券番〉

という五つの券番が 芸を競い 芸妓の数も 二千人に及んだという

博多花街は 東京の 築地や新橋 と並び

全国に 名を馳せるようになっていった


さて その後の 米倉藤三郎 だが

大正の末頃まで 大御所としての 威厳を揮ってはいたが

あまり 人に好かれる こともなく

昭和の初期に 寄る年波には勝てず ひっそり 他界したという


一人の赤貧の若者が築いた 華やかな 花柳界も

あの 戦災で すべてが 消えてしまうことになる



旧藩士 《 米倉藤三郎 》 の名前を 知る者も

今は この街には もう誰もいない






参考文献
小田部博実著「博多風土記」




by nonkei7332 | 2016-06-05 20:27 | ルーツ | Comments(0)