博多 の 主
「 山笠のあるけん 博多たい 」
博多の住む人だけでなく 広く知られるこの 言葉は
かつて 某博多の銘菓が使った TVCM のコピーでした
その中で 博多や 博多町人の気質をこう言っていました
博多には 安泰を祈る 縁起担ぎ や しきたり が 今も息づいている
その中で生まれ育った博多っ子は あけっぴろげ で 人がいい
すこしばかり横行(おうぎょう)で祭り好き
博多出身 の 〈チューリップ〉は 名曲『博多っ子純情』の歌詞の中で
博多の男 をこう歌っています
男たちは とても見栄っ張りで気が強い
海の風に吹かれるから
だけど みんな 貰い泣きするようなやつ
酒を飲んで 肩をたたく
巷に言われる 「博多」のイメージはそんなとこかもしれません
それでは 何故 この町が
博多 と呼ばれるようになったかについては
知っているひとは少ないようです
《 博 多 》(はかた)というの 地名の語源については
Wikipedia では こう書かれています
「ハカタ」の語源は
「土地博(ひろ)く 人・物産多し」という言葉から「博多」
大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」
海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」
射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」
切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」
などの説がある。
Wiki には 書かれていない ハカタ の語源に
『 伯 方 』(はかた) という 名前があります
〈方〉という漢字は 場所とか 国土 という意味があるので
〈伯〉がいた場所 とか 〈伯〉が治めた国土 という意味なのでしょうか
博多駅から 博多港へ一直線に伸びる 大通りがあります
『大博通り』といいます それから この通りから一筋入った 上呉服町には
大正時代に作られた 古き博多人にとっては懐かしい
「大博劇場」と呼ばれる 劇場(後に映画館となった)がありました
神社考古学の 故百嶋由一郎 さんは
この 「大博」(たいはく) という名前について
『太伯』(たいはく)の名残りが残っていると語られていました
魏志倭人伝 には
『 倭 は 呉(中国)の 太伯の子孫である』
と書かれています
呉太伯という 王は どんな人だったのかは
司馬遷が書いた「史記」に詳しく書かれています
それによると
紀元前10世紀ごろ 中国は 周 という国が治めていました
周の先王である〈古王〉には
太伯(たいはく)虞仲(ろちゅう)季歴(きれき)という
三人の息子がいました 古王は後継に 三男の 季歴 を選び
太伯 と 盧仲 は 南の地 に移り 「句呉」(後の呉)という国を興します
やがて 紀元前480年ごろから 〈呉〉は 隣の国 〈越〉と激しく争い
とうとう 紀元前473年 呉の最後の王 「夫差王」の時 呉は滅びます
中国の史書には
「周の元王三年 越は呉を亡し その庶(親族)ともに海に入りて 倭 となる」
と記されています
国を追われた 呉族系海洋民族 (白族・伯族) の一部は 海を渡り
博多湾岸にたどり着き やがて 倭人の国 奴国(なこく)をおこします
安曇族 の祖先 です
百嶋説 によると
古事記神話に出てくる 最初の神
『天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 』の 別名を
『白山姫』又の名を 菊理姫(くくりひめ) といい
全国の水天宮 や 白山姫神社 祀られている 女神 は
伯族の女神であります
その 弟は 奴国 の 先王 である『白川伯王』なのです
百嶋説では その息子こそが
博多の総鎮守 「櫛田神社」の主祭神
『大幡主神』(おおはたぬしのかみ)だと言われています
白川伯王には あと 二人の娘がいました
ひとりは 神武天皇(大白王子) の母 「神玉依姫」であり
もうひとりは 大国主命 の母である 「埴安姫」だと言われています
安曇族の祖神 『豊玉彦』(ヤタガラス) は
「大幡主神」伯族直系の 奴国の王子として
古代九州王朝の 礎を築いていったのでしょう
山笠が近ずくたびに 頭を悩ませていた
「 おくしださん の 謎 」
「 博多 の 主 」
少しは見えてきたような気がします
by nonkei7332
| 2016-04-09 18:42
| 古代史
|
Trackback
|
Comments(0)