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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

比叡山 と 宮沢賢治



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《比叡山延暦寺》の根本中堂の脇を歩いていた 私は

ひとつの 歌碑の前で 足が止まりました

しばらくの間 私の頭の中は 小さな驚きに包まれてました

・・・宮沢賢治 が ここにも 来ていたんだ ・・・


《 ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨 成らしめたまえ 》


( 最澄 の 教えである 法華経が あまねく 人々の心に届く事を祈る )

という意味なのでしょうか この歌碑の背景にはこんな事がありました


この歌を詠んだのは 賢治 25歳の時でした

宮沢家の家業は質屋で


代々 熱心な 浄土真宗の信者でしたので

賢治も仏教には 幼い頃から興味を持っていました

そういった環境の中で 法華経 に強く惹かれるものがあり

多くの経本 を 読みあさります やがて その想いは 行動へと変わります

法華経を信奉する日蓮宗の在家教団「国柱会」に入信したのでした

賢治 24歳の時でした

家族にも改宗を勧めますが 反対され ギクシャクとした親子関係の中

賢治は家を出て 上京します

東京では 家からの仕送りを拒否し 布教活動に のめり込みます

そんな 賢治の状況を心配した 父は 賢治を関西への旅行へ誘ったのです

伊勢・京都・奈良 を 訪ねたようです

賢治を関西旅行に連れて行った 父親の目的は何だったのでしょうか

それは 比叡山延暦寺は 日本仏教の聖地であり

親鸞(浄土真宗)も日蓮(日蓮宗)もこの地で 修行した事を通して

仏教はひとつなんだと 知って欲しかったのでしょうか


最澄(伝教大師)は日本に於ける 天台法華宗の開祖です

天台大師と呼ばれた 唐僧の智顗(ちぎ) が 法華経を根本として起こした

天台教義を 唐に渡り 学びました そして 最澄は 帰国後 延暦寺において

天台教義に加えて 禅・念仏・密教 をも含めた四宗兼学 を目指し

日本に於ける 総合仏教の建立を目指したのでした




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延暦寺 大講堂




宮沢賢治が 比叡山で詠んだ 歌は 他にもあります


《 われもまた 大講堂に鐘つくなり その像法の日は去りしぞと 》


〈像法の日は去り〉とは 仏教の歴史観に 〈三時〉という考えがあります

釈迦は自らの入滅後の未来について正法・像法・末法という三つの時代が

くる事を予言します

正法・・釈迦滅後1000年迄 (教え・修行・悟りが備わっている時代)

像法・・釈迦滅後2000年迄 (教え・修行だけの時代)

末法・・それ以降10000年 (教えだけが残る時代)

一般には 末法の始まりは 1052年だと言われていますので

最澄の時代は まだ 像法の時代だったのです(最澄入滅 822年)

ちなみに この末法思想は 人々に大きな 不安を与え

鎌倉時代に起こる 新仏教の萌芽を呼び起こします

法然・親鸞は 念仏(南無阿弥陀仏)を唱える事で

人々は 死後西方浄土へ行けると説きます

日蓮は 法華経の題目(南無妙法蓮華経)を唱える事で

この世で 即身成仏できると 説きます

宮沢賢治 が 選んだのは 日蓮仏教でした

賢治は 比叡山で 最澄の法華経の魂を感じながらも

今はもうあなたの生きた 良き時代ではない

末法の濁悪の世に生きる者として 新たな思いを込めて

大講堂の側にある 梵鐘の鐘を突いたのでしょう


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梵鐘を撞く 親子
《 我が息子と孫の後ろ姿 》




その後の賢治は 東京へ戻るのですが

妹トシが 病に伏した事をきっかけに 故郷に戻り 農学校の教諭となります


妹 トシ は 賢治にとって ただ一人の理解者だったのでしょう


トシ は 家族が 反対する中 ただ一人


国柱会 への 改宗 をしていたのでした

翌年 大正11年11月27日

宮沢賢治の人生の中で最も悲しい日となります

最愛の妹 トシ が 亡くなります

賢治 の 第一詩集《 春と修羅 》の中に

私が 今まで 読んだ詩の中で 最も悲しい詩だと思う 三編の詩があります


〈永訣の朝〉〈松の針〉〈無声慟哭〉


《 無声慟哭 》


こんなに みんなに みまもられながら

おまへはまだここでくるしまなければならないか

ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ

また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ

わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき

おまへはじぶんにさだめられたみちを

ひとりさびしく往かうとするか

信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが

あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて

毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき

おまへはひとりどこへ行かうとするのだ ・・・




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賢治 の 修羅の道 が ここからまた始まるのでした





〈参照〉拙ブログ《宮沢賢治と木偶の坊》 (2015/5/13)

http://hisamitsu.exblog.jp/24472037/







by nonkei7332 | 2016-02-07 19:15 | 京都 | Comments(0)

by ヒサミツ