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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

今津・唐泊 に 遊ぶ



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今津湾岸 のヨット




博多湾沿い 唐津街道 を 西に向かう

姪浜をすぎると 今津湾沿いの

生の松原 長垂海岸と 白砂青松の 綺麗な海岸線 が続く

唐津街道 は 今宿から は 海岸線をはなれ 前原へと

糸島半島の田園地帯を 突き抜けるように 西へ 道が伸びていく

このあたり かつては 海峡であったといわれ

糸島の名前は 海を隔てた 怡土国 と 志摩国 から

怡土志磨 (いとしま) と呼ばれるようになったといわれている

伊勢・志摩(イセ・シマ)は この地の名前が 移ったものだ

天照大神が降臨したとされる(天の)岩戸が 天ケ岳の傍にある

桜井神社(岩戸宮)の裏手にある


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今津北崎 から 志賀島がみえる


『魏志倭人伝』には、伊都国と呼ばれた このあたり

「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。

そこの長官を爾支(にし)といい、

副官は泄謨觚(せつもこ)・柄渠觚(ひょうごこ)という。

1000余戸の家がある。世々に王があるも、

みな女王國に統べて属する

帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、

ここに常にとどまる場所である。」

また

「 女王国より北には、特別に一つの大率(だいそつ)を置いて

諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。

大率はいつも伊都国で政務を執り、

それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割を持っている。

王が京都(洛陽)や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、

帯方郡が倭国へ使者を遣わすときは、

いつも津(港)で、文書や賜与された物品を点検して、

伝送して女王のもとへ到着する時に、間違いがないようにする」

と書かれている


大率 と呼ばれた 王が 代々 この国の 政務を執行したとあるが

女王とは 卑弥呼 であって 大率の王は 神武天皇 だったのだろうか

この二人が 兄妹 であったという 説もある

とすると アマテラス は 卑弥呼であったというのも

おかしくもない


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北崎海岸より 能古島が見える 手前は 海釣り公園


そんなことを 考えながら 今宿から 海岸線を 北にむかった

入海にかかる 橋のたもとには ヨットが停泊し

今津 北崎 唐泊 に続く 白砂の綺麗な 海沿いを 楽しんだ


《 韓亭能許の浦 波立たぬ日はあれども 家に恋ひぬ日なし 》

万葉集 15巻 3670 遣新羅使

《 訳 》

韓亭(からとまり) の沖の 能古島の海に波が立たない日はあっても

家のことを恋しく想わない日はない


《解説》

韓亭 と 呼ばれた 唐泊の港は

遣隋使 遣唐使 遣新羅使 との 要港だった

沖の波が高いと 舟人は 何日も この場所に停泊し

海の鎮まるのをまったという 韓人が多く泊まる 宿もあり

人々は ここを 韓亭 と呼んだ


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半島の先端の町が 唐泊


志賀島 能古島 が 沖に見える 今津の浜・唐泊

ここは 磯良の海の 入り口だったのだ









by nonkei7332 | 2015-10-22 15:06 | 古代史 | Comments(0)