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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

博多の政商 神屋宗湛



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博多祇園山笠 飾り山 『 博多の豪商 神屋宗湛 』




博多商人の 三傑 と言えば

〈神屋宗湛〉〈島井宗室〉〈大賀宗九 〉

そのなかでも 博多町人にとって 最も親しみのある 豪商こそ

《 神 屋 宗 湛 》でしょう


神屋家の祖先は 鎌倉幕府の御家人で

宗像の大宮司 宗像氏貞 に仕えた 神人(神職) でした

いわゆる 物部氏の末裔の もののふ だったようです


宗湛は 天文20年 (1551年) 時は 室町時代の終わりに

神屋紹策 の子として 博多に生まれています

幼名は 善四郎貞清

中世の博多は 常に戦乱に巻き込まれ

町は何度も荒廃しました

永禄12年(1570年) 毛利 と 大友 の両軍が

博多で激戦をした時は

宗湛一家は 肥前唐津に難を逃れて移り住みます

宗湛19歳の時でした

( この時 山笠人形の小堀家も 唐津に難を逃れています )


宗湛の祖父 神屋寿貞 は 明国で 冶金術を学び

石見銀山を発掘して 銀鉱の精錬術を成功させた

偉大な 商人でした

その血をひいた 宗湛は 唐津における 17年間

父 紹策の指導の元

海賊松浦党の援護もあり 海外貿易の商才を磨く かたわら

茶道の修行にも励み その道にも 精通したとされます


天正13年(1586年) 宗湛 35歳の時 上洛の志を果たします

茶道の名人であった 京都大徳寺の住職 古渓和尚の弟子になり

宗湛 の名前を 号するようになります

天正15年 堺の茶人 津田宗久 の手引きで

豊臣秀吉と 大阪城の茶会で 謁見します

秀吉は 「筑紫坊主」と宗湛のことを呼んだといいます

その時 宗湛は 島津氏に焼き払われた

博多の町の 再興を願い出たのです

宗湛の先見は 見事に的を得たようです

その年 秀吉は 九州征伐の軍を起こし 自ら 出兵します

九州に戻った 宗湛の活躍は 目を見張るものがありました

兵糧 や 秣(まぐさ: 軍馬の餌) の供給を一手に引き受けたり

秀吉のそばで 戦地に赴き すべての 雑務をこなしたのでした


島津征伐を終えた 秀吉は 博多に戻り 箱崎に本陣を置き

宗湛は 諸大名や千利休も呼んで

盛大な茶会を 催したりすることで

さらに 秀吉の信頼を 得たようです

そして それは 秀吉の 願望だった

朝鮮出兵の補給拠点としての

博多の町の 再興を決意させることにも 繋がっていきます

こうした 政商 神屋宗湛 の 機敏な 行動と働きは

秀吉の 朝鮮出兵の時期を早めたとも 言われているのです


博多の町を 再興させた 豪商 神屋宗湛

秀吉亡き後も 黒田家の 御用職人として 博多に住みつき

博多の人々に愛された 宗湛 は 83歳の長寿を全うしました



宗 湛 と 秀 吉

もののふ の血を引き継いだ

博多那の津の商人 と 尾張の猿楽師のせがれ の 出会いは

ひとつの 歴史を 後世に残したのでした







by nonkei7332 | 2015-05-18 21:31 | ルーツ | Comments(0)