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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

博多の人形 と 木偶の坊 (でくのぼう)



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小堀流山笠人形の直系といわれている
人形師 白水英章さん と 山笠人形
(西日本新聞)



木偶の坊 (でくのぼう) は 《語源辞典によれば》

「 平安時代の 「くぐつ」という木彫りの操り人形のことである
木偶の坊が 役立たずの意味になった由来は
木の人形を無能な人に喩えたことによるものなのか
人形が手足のない 木の棒のようなものであったことからされる
ただし 「でくのぼう」の「ぼう」は親しみや軽い嘲りを表す
接尾語として用いられている為 「木偶の棒」と書くのは誤りである

人形が「木偶の坊」と呼ばれるようになった由来は
「でくるぼう」とも言われたことから
「出狂坊(でくるひぼう)」を語源とする説。

「手くぐつ」が訛った「でくる(坊)」から
「木偶の坊」になったとする説などが
有力とされるが 正確な語源は未詳。

その他 「泥人形」の「泥偶(でいぐう)」が訛り
「でく」になったという説もあるが
《泥人形》と《木彫りの操り人形》の関連性の薄さや
「でく」から「でくる」になった後で
「でく」に戻ることは 考え難いために
有力視されていない 』

この語源説の中で 私がもっとも 興味深いのは 有力視されていない
「泥人形」と「木彫りの操り人形」の 関連性です




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小堀氏略系図 (福岡市博物館所蔵)



小堀善左衛門正直 《小堀氏略系図》によると
『 京都四条 に 住む 木偶師 』でした
「木彫りの操り人形」を作ることを生業にしていたことは
永享9年(1437年) に 京都から 博多の櫛田神社に 召喚され
博多祇園祭りの 山笠人形の始祖 になったとされています
当初の山笠人形は 木彫りであり 手も足もない 頸だけの木彫りだったことから

博多の山笠人形の 元の形は 京都のからくり人形 だったと考えられます


《追懐松山遺事》山崎藤四郎著 によれば

『小堀家12代 小堀甚三方の古記によれば 同家が 人形の頸 を種々所持していたので
当番町はその中から適当なものを選び 人形一つに 白木綿一反 と 木綿形付きの浴衣
博多織の男帯 に 足袋一足宛をやっておけば 小堀家にて 人形の形態を造り
その浴衣を着せ 人形の男女にかかわらず 右の帯を締めさせ
両足には 黒木綿の脚絆の如き物を作り 足袋をはかせて 人形が出来上がる
しかして 各人形の前には「八つ足」机をすえ 榊 お神酒 お灯明等 を供え
旧5月28日 櫛田神職 天野氏は 小堀甚三方に赴いて “御祓(ご神入れ)” をする
その夜 小堀家へ 人形を見に行く人が多かった』 とあります



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博多人形 白水英章作



「泥人形」といえば
国内で最も古い 土人形といえば 京都伏見の 「伏見人形」だといわれています
伏見城から伏見稲荷までの一帯 は 深草 と呼ばれ 7世紀の初めには
この地では 土器がつくられ 土師部(はじべ・埴輪や土器を作る職人)が 
奈良の菅原から移住してきたという 文献が残っています
やがて 稲荷信仰の 全国への拡がりと一緒に この人形も全国にひろがり
各地の郷土玩具へと なっていったようです
さて 博多人形 の歴史をたどれば 素焼き人形として 最初に作られたのが
文化5年(1821年) 中ノ子吉兵衛 によるものとされています
九州に於いては 最も古い土人形と言われているのが 長崎の 「古賀人形」です
文録元年(1592年)京の伏見人形の流れをくんだ土人形をつくるようになったといわれています
実は 博多には 文化年間より もっと古くから 京都の伏見の流れをくんだ
人形が 作られていたという 説があります
貞享元年(1684年) 正徳元年(1711年) 元文3年(1738年) に 没した人の 墓に
土人形が 納められていたという記録が残っているというのが
その根拠になっています


《 稿本 古博多人形史 》梅林新一著 によれば

『 小堀家が 京都出身である事から 時代の古い 墓地からの出土品が
伏見人形の移入品であるか それとも 小堀家
或いは その系統の人によってつくられた
伏見人形を模索した 土人形であるやもしれない 』



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野見宿禰




その説を 補足するのが 《小堀家略系図》の最初に書かれている
『 野見宿禰 後胤 』の 文字です

野見宿禰 (ノミノスクネ) とは

『天穂日命(アメノホヒノミコト) の子孫で 垂仁天皇の命により
当麻蹴速(タイマノケハヤ) と力を争って勝ち 相撲取りの祖とされている
また 皇后の死に際し 殉死の代わりに 陵墓に 埴輪(はにわ)を立てる事を進言して
土師臣(はじのおみ) を 拝し 子孫は 天皇家の葬儀をつかさどったようだ
土師氏 の 直系が 菅原氏 である 』

文献が見つからず 推論の域をでませんが
小堀家 の祖先は おそらく 菅原家 の流れをくむ 深草の 土師部 であり
伏見人形を 造っていたのではないでしょうか
後三条天皇の延久4年(1072年) には 伏見稲荷社 と 祇園社に 天皇が行幸し
これを 「両社行幸」と称して 歴代の慣例として鎌倉時代まで続いていたようで
おそらく 両社の繋がりは 深いものであったのでしょう
その繋がりで その後 小堀家は 祇園社(八坂神社) の所領である 京都四条に移り住み
その地にて 木彫りの操り人形 をつくるようになったのではないでしょうか


《 泥人形 》と 《 木彫りの操り人形 》

《 博多人形 》と 《 山笠人形 》を 博多の町で 結びつけた

小堀善左衛門正直

彼こそ 正真正銘の 《 木偶の坊 》(でくのぼう) だったのです







by nonkei7332 | 2015-05-11 22:50 | 博多ルーツ | Comments(0)