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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

『風姿花伝』について 3


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能面




将軍義満 の庇護のもと
世阿弥 は 凛々しく 芸風を拡げていきます
観客は その 美しき舞に 酔いしれ
幽玄の中に 神話を見たのでした
晴れやかな 人生は いつまでも 続くものではありません
至徳元年(1384年) 世阿弥 22歳のとき
駿河に 巡演中の 父 観阿弥が 亡くなります
親と師匠を一度に失うという 大きな試練 でした
それだけではなく 一座を背負う 座長としての現実が
彼の肩に 重く のしかかってきたのでした

世阿弥は 新たな 挑戦を始めます
結崎座 を 観世座 と変え 統領として 観世三郎 と名乗ります
坐を束ねながら 父の遺した 演目を編曲したり
〈 夢幻能 〉と呼ばれる 独自の構成の新作で
新たな境地を開きます

唯一の悩みは 後継者でした
なかなか 子供が産まれなかった 世阿弥は
弟 四郎の子 (後の音阿弥) を
養子に迎えます ところが その後
奇しくも長男 元雅 (もとまさ)次男 元能 (もとよし)
金春禅竹(こんぱるぜんちく)の妻となる娘 の
三人の子どもが生まれます
この頃 から 父の遺した 遺訓を元に
能芸論を まとめた 『風姿花伝」の執筆に取りかかるのですが
観世流の 正しき 伝承を 考えた上での
マニュアル作りだったのでしょうか
後継者には 音阿弥 か 元雅 かで 悩みましたが
完結した『風姿花伝』は
実子 元雅 (もとまさ) に 相伝されたのでした

応永15年 (1408年) 将軍義満 が 51歳で 亡くなります
義満の死は さらに大きな試練を 世阿弥 に与えます
後を継いだ 将軍義持 は 父への 反動か
猿楽よりも 田楽を贔屓にしたために 猿楽各座は衰退していきます
義持の時代 世阿弥は 後継者の育成と 多くの伝書をのこします
再び 訪れるであろう 猿楽の将来を信じ 充電に徹したのでした

応永29年(1422年) 世阿弥は
家督を 元雅に譲り 一線から身を引き 出家します
やがて 義持が死んで 将軍義教の時代になると
義教は 猿楽を支援しますが
贔屓としたのは 元雅 ではなく
かつて 世阿弥が養子に迎えた 音阿弥 でした
義教は 世阿弥父子の楽頭職を罷免し
音阿弥を その職につけます
その頃 将来を悲観した 次男の元能も出家してしまいます

永享4年(1431年)8月 世阿弥 70歳の時
人生最大の惨事がおこります
将来を託した 元雅 が 伊勢の安濃の津で 客死したのでした
後年 発見された文献には
「足利の家臣により 暗殺された」と残されていました
詳しい経緯は不明です
世阿弥は 「夢跡一紙」の中で こんな歌を遺しています

《 思ひきや 身は埋もれ木の残る世に 盛りの花の跡を見んとは 》

訳 : 埋もれ木のように老いた自分が生きていて
盛りの花というべき
子供の 亡骸をみるとは 思ってもみないことだったl

観世流の 後継 が 元雅の死によって 途絶えたのです
世阿弥の失意は 計り知れないものでした


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佐渡の夕日



苦難は続きます 永享6年(1434年) 5月 世阿弥 71歳の時 でした
突然 佐渡に流罪されるのです
元雅の暗殺の絡みなのかもしれませんが
一説には 世阿弥の秘伝書を 音阿弥に譲るようにとの
将軍義教の 命令を拒否した為だと いわれていますが
定かでは ありません
佐渡における 八年もの間 罪人として 環境 のなかでも
「金島書」という 八編の謡曲を 残しました
やがて 義教の死により 赦免され
辛く 苦しかった日々も終わりを告げます
世阿弥は 音阿弥には 渡さなかった 秘伝書を
娘婿の 金春禅竹 に 伝えます

妻 寿椿 と共に 静かな余生を過ごしたのでしょうか
嘉吉3年(1443年)8月8日 世阿弥 81歳
その 波乱万丈の人生を 閉じました

これを見ん 残す黄金の島千鳥 跡も朽ちせぬ 世々のしるしに 》

訳 : 佐渡の流人が 書き遺した これらの謡を
後の世までも 朽ちることのない
形見として 見てくれるであろうか

( 世阿弥 辞世の句といわれています)

 






by nonkei7332 | 2015-05-03 14:39 | | Comments(0)