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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

秀吉は 猿 だった ⑶



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フェリペ2世 (スペイン最強王)



『 秀吉の 朝鮮出兵の 本当の動機は

《 スペインのアジア侵略の対抗手段》

だったって 知ってる?』


この質問に 友人の答えは こうでした


『 そんなの 初めて聞いたけど

秀吉の天下統一 によって 恩賞をめぐり

家臣の中には 不満が高まっていて

狭い国土には 与えるべく領地も乏しいために

家臣達の不満のはけ口として

朝鮮出兵を行ったんじゃ ないの 』


確かに 私も 学校では そう 習ったような気もします



『太陽の沈まない帝国』と称された スペイン は

最盛期(16~17世紀前半)には 世界中の 8割 の国を 植民地にしていました

アジアにおいても フィリピンを侵略して

残るのは 明 (朝鮮半島を含む) と 日本 だけでした

スペイン の 軍事侵略 は

中南米の インカ帝国 や マヤ文明が滅ぼされたように

カトリックの布教活動と植民地獲得の軍事侵略が

一体化した形で遂行されてきたようです

日本にも イエズス会の フランシスコザビエルに はじまり

多くの 宣教師が 布教活動をやっていましたし

その中で 改宗した キリシタン大名も数多くいました


《 キリシタン大名 》


有馬義貞(肥前領主)

大村純忠(日本で最初のキリシタン大名)

大友宗麟(豊後領主)

織田有楽斎(織田信長の弟)

織田秀信(信長の孫)

蒲生氏郷(会津領主)

黒田如水

小西行長

高山右近



秀吉が 九州平定を終え

博多湾岸の 箱崎 にいる時に 事件は起こります

当時 イエズス会初代準管区長 の 〈 ガスパール・コエリョ 〉が

秀吉に謁見し大砲を装備したスペイン船 を 秀吉 に見せたのですが

その船の動力源である 船漕ぎが 全て日本人であったのを

コエリョに聞くと『 皆犯罪者だと 』と平気で言ったことや

スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく 誇示したことに対して

秀吉は 激怒します

そして 1587年7月24日《 バテレン追放令 》 を出したのです


秀吉は こんなふうに 考えたのでは ないでしょうか


『 もし 〈スペイン〉 と 〈キリシタン大名〉 が

手を組んで 反旗を掲げれば

神国 日本 は たちまち 異教徒に侵略されてしまうだろう

よしんば 〈明〉が先に 征服されたとしても

明の軍兵を使って いずれは

〈スペイン〉は 我が国を襲い

あの 元寇の役 のようになるかもしれない

とすれば 方法はひとつ

〈スペイン〉より先に 〈明〉を奪うしかない 』



文禄元年(1592年〉4月12日

秀吉は (小西行長) 率いる一万八千 の 一番隊 を 釜山浦に上陸させます

これが 〈 文禄の役 〉です

当初 快進撃をした 日本軍でしたが

縦に伸びた戦線の食糧補給路を

朝鮮水軍に絶たれ 苦戦し やむ無く撤退することになります

その後 明との講話交渉も決裂した為 に

慶長2年(1597年) 再度の出兵を決意します

これが 〈 慶長の役 〉です

総力戦 で臨んだ 秀吉軍でしたが

1958年 8月 秀吉の 突然の病死により

退却を決め 7年に及んだ 戦いは幕をとじます


秀吉の 朝鮮出兵とは いったい なんだったのか 評価は二分します


多くの 負の遺産 は残した戦いでしたが

歴史を 一元的に見るのではなく

結果として スペイン植民地政策 という 脅威から 国を護り抜いた 評価も

私は 忘れてはならないと 思っています




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NHK「軍師官兵衛」 秀吉の最期






by nonkei7332 | 2015-01-26 10:12 | 博多ルーツ | Comments(0)

by ヒサミツ