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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

秀吉 は 猿 だった ⑴



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『 豊 臣 秀 吉 』ほど

波乱の人生を送った 戦国武将はいません

草履取りから 太閤 まで上り詰め 立身出世の旗頭として

多くの日本人から 愛されてきた人でもあります

ただ その 人 たる 全容はまだ

明らかには されていないような気がします

秀吉は どこで産まれ どのように育ち 何をしようとしてきたのか

私には ただ 目先の欲望に駆られ 人たらし と言われ

人身術に長けた 能力があったから だけとは到底思えないのです


そこには 誰も知らない 何かが 隠されていたように 思えます


秀吉の出自には 諸説ありますが 最も まともといわれている

土屋知貞という武士が書き残した


『太閤素性記』という書物があります

そこには


秀吉 は 其母 野合の子なり、

その いとけなかりしとき、つれ子にして

木下彌右衞門に嫁したるに、

彌右衞門早く世を去りければ、

其の頃 織田家の茶坊主にて 筑阿彌 といひしもの、

浪人して近村にあるをもつて、すなはち之を入夫したり、

此の故に彌右衞門は秀吉の繼父にして、

筑阿彌は假父なり、

秀吉も亦此を悟りて、吾には父なしと云はれしなり、

若し彌右衞門にもせよ、筑阿彌にもあれ、生の父ならんには、

はや世を去りて年を經るとも、

秀吉武運比類なく富四海をたもつに至りて、

父の廟を建立し贈官の追福あるべし、

然るに其事なかりしは、

野合の子なりしなれば也



「野合の子」とは 父が誰だかわからないということです

木下彌右衞門にしても 筑阿弥 にしても

自分のほんとうの父ではないと秀吉は知っていました


その 証拠に もし 父だとすれば


あれだけ 上り詰めた秀吉ならば


陵墓 を建て 後世まで祀ったであろうし


そういった記録も 説話さえも残っていないから と


ここには書いてあります



彌右衞門は 秀吉 八歳の時に死んでいます

おそらく 少年時代の 秀吉に 最も影響を与えたのは

二人目の義父 阿 弥 〉であったであろうと 私は 思っています

「織田家の茶坊主 筑阿弥」とは 一体 どんな人物だったんでしょう

茶坊主(ちゃぼうず)とは

大名家の城中のあらゆる雑用に従事し

刀を帯びず 剃髪していたため「坊主」と呼ばれていますが

僧ではなく また 『同胞衆』


とも いわれていたといいます


その中でも 芸能に優れた 同朋衆 を 阿弥衆と言って

阿弥号 を用いたといわれていますから

筑阿弥 は 織田家 専属の 「猿楽師」だったのではないでしょうか

〈 猿楽(能)の歴史については http://hisamitsu.exblog.jp/23738288/

織田信長が 桶狭間の戦い出陣前に舞ったといわれる


みやま市(瀬高町)〈大江天満神社〉に伝わる


「幸若舞」の 『敦盛』(あつもり)

『 人間五十年 下天の内を 比ぶれば 夢幻の如く也 』

の一説で有名ですが

〈筑阿弥〉と 〈大江天満神社〉 何か 繋がりそうですね


話をもどします

秀吉は いろんな 経緯があって 信長に仕えるのですが おそらく

信長は『猿楽師のせがれ』として 秀吉を知り

『猿』『猿』と言って

秀吉を呼んでいたのではないでしょうか

もうひとつ 推論を重ねると


その当時『同朋衆』のネットワークは

影の組織のようにして 神社を中心に全国に拡っていたようです


( 歴史から消されていった 秦氏 安曇氏 の渡来系ネットワーク )


( 神社で言えば 八幡系 稲荷系 天神系 )


信長は その事を知っていて 情報網のパイプとして

秀吉の存在価値を高めるために

他の武将よりも 重用していったのではないか

また 秀吉も そのネットワークを巧みに使って


力を蓄えていったのではないかと思っています




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大阪城



信長のあと 天下統一を果たした 秀吉は

五十歳の時 太政大臣となり 朝廷から豊臣姓を 授かります


何故 『 豊 臣 』だったのか


『 豊 臣 』とは 何なのか


何故 朝鮮出兵にこだわったのか


辞世の句に残る 謎 は


隠れた謎は まだまだ 続きます。






by nonkei7332 | 2015-01-22 18:29 | 博多ルーツ | Comments(0)