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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて

父と海 (1)



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岩代海岸


最近 父の夢をよく見る

父の魂が 近づいているからだろうか

週末は父の日でもあるので 私の最も近いルーツの旅

父のことを追いかけてみた


1912年(大正元年)

和歌山県日高郡岩代村 に父は生まれた

もし 生きていれば 今年で 102歳。

生後まもなくして 両親がチフスの病にて亡くなったために

祖父の元で幼年を過ごしている

1912年といえば 明治天皇が7月30日に崩御され

明治が大正へと年号が変わった年である

海外では中国の清朝が滅亡し 孫文の中華民国が成立している

イギリスの豪華客船 タイタニック号が沈没した年でもある



岩代村は紀伊半島の白浜温泉の近く 海岸線の小さな漁村だ

私は 五歳の時 父に連れられて 一度訪ねているが

遠い記憶では 岩代駅を降りて 坂道を登って行くと


右側に学校があって神社の横を歩いて行った


そんな 風景が かすかに 記憶の中に 残っている


話は 思わぬ所から始まるもので

最近 万葉集を紐解くなかで


ここの 岩代の地が 出てくる歌を見つけた



《 磐代の 浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む 》

( 万葉集二巻 141)


(岩代の浜の松の枝を結んで 幸いにも無事だったら、またここに戻ってきて見よう )


歌人は 有 間 皇 子 』 (アリマノミコ)

36代孝徳天皇 が 后の小足媛(おたらしひめ)とともに

有馬温泉に滞在中に生まれた 待望の皇子で


「有間皇子」と呼ばれた

有間皇子は有力な皇位継承者の一人であったが為に

その後 『有間皇子の変』と呼ばれる

皇位争いに巻き込まれた 悲劇の皇子だという



【 悲劇の皇子: 有間皇子(アリマノミコ)】

和歌山県観光情報より


有間皇子の悲劇、それは大化の改新から始まります。

第34代舒明天皇の後、皇后が皇位につきました。

皇極天皇[女帝]で、都は飛鳥板葺宮です。

大化の改新はその 4年後になります。

皇極4年(645)6月12日、

中大兄皇子 中臣鎌足らによって飛鳥板葺宮の大極殿での

三韓進調(さんかんしんちょう)の儀式の場、

それも皇極天皇の御前で、時の権力者であった


蘇我入鹿が首を切られ

わずか一日で蘇我氏は滅亡します。

世にいう乙巳(いつし)の変です。

皇極天皇の衝撃は大きく、その2日後の14日には

弟の軽皇子(かるのみこ)に皇位を譲りました。


孝徳天皇です。

改新を推進した中大兄皇子は政治的配慮によって皇太子に、

皇后には中大兄皇子の妹の 間人皇女 がなりました。

鎌足は内臣(うちつおみ)<大臣にあたる官職>です。

それが「鎮魂歌集的性格を持つ」万葉の時代の始まりとなりました。

孝徳天皇が 難波長柄豊碕 の宮に都をうつして


8年後の白雉(はくち)4年(653)

中大兄皇子は、都を飛鳥にかえすことを勧めましたが、

孝徳天皇は聞き入れず、それならばと天皇を残して、

皇后を始め多くの人々を引き連れて飛鳥へ帰ってしまいました。

孤立した孝徳天皇は煩悶のあまり1年後に

妃の小足媛(おたらしひめ)と有間皇子を残して


崩御(ほうぎょ)されます。

そのあと皇極天皇が重祚(ちょうそ)して斉明天皇となるのです。


中大兄皇子は依然として皇太子にとどまっていました。

時に有間皇子6歳、幼いとはいえ天皇の皇子でありました。

当然、皇太子中大兄皇子と並ぶ皇位継承の有力者として

ライバル関係が生じ、世の注目を集めることとなりました。

それが何を意味するかは自明の事、悲劇の幕開けです。

中大兄皇子は蘇我入鹿を討った後、大化元年(645)9月には

兄である古人大兄皇子を謀反を企てたとして死罪に処していますし、

同5年(649)には妃の一人である遠智娘の父、

蘇我倉山田石川麻呂をも讒言によって自殺に追いやっています。

有間皇子に累が及ぶのは時間の問題でありました。

「日本書紀」斉明3年(657)9月の条には

「有間皇子性黠(ひととなりさと)くして陽狂(うはりくるひ)す云々」、

利口な性格で病であるように装ったといいます。

常に身を危険にさらされ、

こうした保身までしなければならなかったことも辛いけれど、

いつまでも病人のまねをし続けることは

もっと辛いことであったに違いありません。

皇子は牟婁の温湯<和歌山県白浜湯崎温泉>に出かけて

療養してきたように見せかけ、かの地のありさまを誉めて

「あのあたりの風光に接しただけでおのずから病気が癒されました。

天皇も是非お出かけになられてはいかがですか」と奏上したところ、


孫の建王をわずか8歳で亡くして哀しみに沈んでいた 天皇は

大いに喜び、翌4年10月皇太子以下を引き連れて

牟婁の温湯に行幸しました。事件はその留守中に起こりました。

11月3日蘇我馬子の孫にあたる 留守官の蘇我赤兄が

有間皇子邸を訪れ、

天皇の三つの失政をあげて謀反をそそのかしたのです。

「大きな倉庫(くら)を建てて、人民の財物を集積すること」


「延々と水路を掘って、公の食料を消費すること」


「舟に石を乗せて運び、それを丘のように積み上げること」

皇子は赤兄の言を信じ、心を許したのでしょうか、

5日には赤兄の家に行き、謀議をめぐらしました。

その時、有間皇子の脇息が折れたのを不吉の前兆として、

挙兵することを断念しました。その夜半、生駒の市経にある

皇子の邸を赤兄の兵が取り囲み、皇子は捕らえられ、

共謀者4人とともに牟婁の温湯に護送されてしまいました。

「謀反の心あり」として赤兄から報告があり、

既に討伐の命が出されていたのでしょう。

9日、護送の途中

磐代(いわしろ)<岩代、和歌山県日高郡みなべ町>の浜で

詠んだのが 万葉集中白眉といわれる短歌二首であります。


磐代の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む

(万・巻2-141)


(岩代の浜松の枝を今、引き結んで幸を祈るのだが、

もし命があった時には再び帰ってこれを見よう)


家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る

(万・巻2-142)


(家にいると器に盛って神に供えるご飯を、こうして

心にまかせぬ旅にいるので椎の葉に盛ってお供えすることだ)

一見、騎旅の歌のようであるのに、

どうして万葉集の「挽歌」の部の、

それもその冒頭に載せてあるのでしょうか。

題詞に「有間皇子 自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」とある

「自傷」とはいったい何を悲しんでいるというのでしょうか。

それがこの「日本書紀」の斉明天皇3年9月から同4年11月の

わずか一年余りの出来事と深い関わりがあるのです。

松の枝を引き結ぶのは、草の根や衣の紐などと同様、

それらに自らの魂を封じ込めて旅の安全を祈る

古代人の風習であり、

作者有間皇子が反逆の罪で捕らえられ、

護送されてゆく途中の作でありますから、

淡々とした中にも、異常な運命に耐えつつ、

道の神に対して一縷の望みを託そうとする心情があわれでなりません

こうしてみると一首目の「飯」も手向けの神饌であり、

旅の途中であるから椎の葉に盛って食べなければならない

というような単純な悲しみではないのです。

11月9日の夕べ、牟婁の温湯に到着した有間皇子を待っていたのは

中大兄皇子の厳しい尋問でありました。

「なぜ謀反を企てたのか」との問いに有間皇子はただ一言

「天と赤兄と知らむ 吾(われ)全(もは)ら知らず」

(天と赤兄に聞いてくれ 私は何も知らない)


とだけ答えました。

11月11日には再び都へ送還され、

途中自ら結んだ松の枝は目にしたものの、

藤白の坂<和歌山県海南市藤白>で絞首させられ、

あたら19歳の若い命を、あたかも赤い椿の花を手折るように

散らしたのでありました。





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この岩代の浜に 二つの 八幡社がある

東岩代八幡神社 と 西岩代八幡神社である

元々は ひとつの社殿だったのかも知れないが

真実は定かではない

東岩代の祭神は 〈 譽田別命 〉

西岩代の祭神は 〈 品陀別命、足仲彦命、氣長足姫命 〉

ともに 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 を祀っておられる


神社庁の由来をみると


古来の伝承によると、当社は現在地の約4㎞東


岩代川最上流、旧南部川村、印南町との境界に近い

小字神出に鎮座していた。

中古(年代不明)に現在地の東南約300mの小字古茂谷の山腹に遷座、

桜の宮と称した。

その後(年代不明あるいは大宝年間かという)


現在地の小字宮ノ久保に遷座した。

当社境内に藤の大木があったことから「藤の森」とか、

水田地帯の森の中に社殿があったことから

「田中の森」(小字宮ノ久保の北側が小字 田中 になる)と称した。

当社は、日高地方の神社の中でも最古の棟札と、多くの棟札の残る神社である。


神社の由来を追うことによって 思わぬ発見をすることがある


父の先祖は 間違いなく 神社の氏子としてこの地に住んでいたことがわかる

私の中に流れる 海人族の魂は 父の魂の故郷でもあったようだ



(つづく)





by nonkei7332 | 2014-06-09 13:20 | ルーツ | Comments(0)

by ヒサミツ