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《 磯 良 の 海 》

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磯良の海に想いを寄せて



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春雷





『雷乃発声』(かみなりすなわちこえをはっす)

暦の七十二候(3月30日頃)

春の訪れを告げる雷が鳴り始める頃

「春雷」(しゅんらい)は「虫出しの雷」とも呼ばれています



深夜 目が覚めました

外は 春雷 が 鳴っています

記憶をたどって ノートから 一遍の詩をみつけだしました

『きけ わだつみの声』『日本戦没学生の手記』

田邉利宏さんの 「従軍詩集」より

田邊さんは 日本大学卒

昭和16年8月 中国華中にて戦死26歳とありました




《 夜 の 春雷 》


 はげしい夜の春雷である。

 鐵板を打つ青白い雷光の中に

 俺がひとり石像のように立ってゐる。


 永い戦ひを終へて

 いま俺達は三月の長江を下ってゐる。

 しかし荒涼たる冬の豫南平野に

 十名にあまる戦友を埋めてしまったのだ。

 彼等はよく戦ひ抜き

 天皇陛下満歳を叫んで息絶えた。

 つめたい黄塵の吹きすさぶ中に

 彼等を運ぶ俺達も疲れはててゐた。

 新しく堀りかへされた土の上に

 俺達の捧げる最後の敬禮は悲しかった。



 共に氷りついた飯を食ひ

 氷片の流れる川をわたり

 吹雪の山脈を越えて頑敵と戦ひ

 今日まで前進しつづけた友を


今敵中の土の上に埋めてしまったのだ。

        
はげしい夜の春雷である。

 ごうごうたる雷鳴の中から

 今俺は彼等の聲を聞いてゐる。

 荒天の日々

 俺はよくあの掘り返された土のことを考へた。

 敵中にのこしてきた彼等のことを思ひ出した。

 空間に人の声とは思へない

 流血にこもった喘ぐ言葉を

 俺はもう幾度きいただらう。



 悲しい護国の鬼たちよ!

 すさまじい夜の春雷の中に

 君達はまた銃剣をとり

 遠ざかる俺達を呼んでゐるのだらうか。

 ある者は脳髄を射ち割られ

 ある者は胸部を射ち抜かれて

 よろめき叫ぶ君達の聲は

 どろどろと俺の胸を打ち

 びたびたと冷たいものを額に通はせる。

 黒い夜の貨物船上に

 かなしい歴史は空から降る。

 明るい三月の曙のまだ来ぬ中に

 夜の春雷よ、遠くへかえれ。

 友を拉して遠くへかえれ。
                              



# by nonkei7332 | 2017-03-27 05:15 | 日記 | Comments(0)


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馬酔木(あせび) の 花 が見たくて

箱崎宮 の 花庭園 に 行ってきました



春日山 から 飛火野辺り

ゆらゆらと 影ばかり 泥む夕暮れ

馬酔木の 森の 馬酔木に

たずねたずねた 帰り道




さだまさし は 『まほろば』の中で

《 馬酔木(あせび) の 森の 馬酔木(まよいぎ)に 》

と 詠いました



別れを決めた 若い二人がたどり着いたのは

春日大社参道の二の鳥居少し手前を 南側に入った

〈ささやきの小径〉辺りだったのでしょうか

道の両側には 馬酔木が 生い茂っています

二人の歩く道は 迷い道 だったのでしょう

狂おしい程の 別れの記憶が 蘇ってきます




遠い明日しか 見えない僕と

足元の ぬかるみを 気に病む君と

結ぶ 手と手の 虚ろさに

黙り黙った 別れ道




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馬酔木 は 花が終わり 四月の終わり頃になると

綺麗な 若葉に包まれます

去年 は 若葉の頃 でした

あれから 一年

私の 周りだけ 時の流れが こんなにも速いのは


何故 なのでしょうか






# by nonkei7332 | 2017-03-23 06:25 | | Comments(0)


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筑前琵琶師 尾方蝶嘉さん
ホームページより




明治の始め 博多の町に

栗山幽斎という 旧黒田藩士が住んでいました

黒田二十四騎の筆頭 栗山大膳 の ゆかりの人物かどうかはわかませんが

明治3年6月 この旧藩士に 愛くるしいひとり娘が生まれます

この親子に その後何があったのかは 定かではありませんが

両親が やがて亡くなり ひとり残された 娘は

博多の花町の養女となって たくましく 生きていくのでした

娘はやがて 妓名 を 《 金 時 》と 名乗ります

その 生まれ持った 美貌 と 美声 で 若くして

博多の 券番 でも 人気の芸妓の ひとり となりました

金時 は 三味線 と 月琴 の名手でした

引く手数多の贔屓筋の中で 金時 を射止めたのは

博多の富豪 《 加納 熊次郎 》です

酒造家の 加納熊次郎は 金時の奏でる 月琴を聴きながら

その芸才を 誰よりも 理解していましたし

その為なら 財を惜しむことはありませんでした

金時という名に別れを告げ 《 吉 田 竹 子 》と名乗りました

そして 明清楽 や 八雲琴(二弦琴)をも 修めたのでした


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筑前琵琶
尾方蝶嘉さん ホームページより



京都におこった 平家琵琶 は 室町以降 100年の間に 全盛期を迎えます

その後 戦国の世に入り 仕事を無くした 琵琶法師達 は

生活苦のために 京を離れ 多くは 流浪の僧となって

西へと 流れて行きました

琵琶と云えば 太宰府 四王寺山に 居を構えた

筑前琵琶 の 始祖である 玄清法師 は 成就院 を建立し

九州盲僧の中興の祖と仰がれたのですが

法印の 第九世 寿讃(じゅさん) は 博多の 蔵本町に 成就院を移し

〈臨江山 妙音寺〉と 名前を変えます

妙音寺 は 西日本の盲僧院坊の触頭として隆盛を続けますが

天正末期に兵火により灰塵に帰してしまいます

黒田二代藩主 忠之は 福岡城の鬼門除けの霊寺 として

藩の祈祷所として 妙音寺 を 再興したのでした

博多には 妙音寺 の元で いくつかの 盲僧坊がうまれます

妙福坊(橘智定の家祖) 大泉坊(鶴崎賢定の家祖) 観照坊(高野観道の家祖)

これらの盲僧達は 「般若心経」や「地鎮経」を 琵琶に弾じたり

荒神払いといって 家々を回り 布施でなんとか 命を繋いでいたのですが

明治4年 になると 新政府は「盲官廃止令」を発布します

この廃止令 は 盲僧の存在が 治安維持や 戸籍編成 の妨げになると

考えられたからですが 明治5年 には 「修験禁止令 」も 出され

修験道も 禁止されます

仏教寺院にとっては 多難の時代の始まりでした



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明治22年 の 博多地図




荒神琵琶 も 時代の流れには 逆らえません

この流れに危惧した ひとりの 愛琵家 が 動きます

あの 加納熊次郎 でした

加納 は 絶滅寸前の 琵琶再興の志を 二人の人物に委ねます

妙福坊の橘旭翁 と 吉田竹子 でした

二人には 薩摩琵琶の改良研究と 新たな 弾法と音曲の開拓を託します

盲僧琵琶と三味線の折衷を試みた 吉田竹子は

明治26年(1893) 博多の文士 今村外園 が 忠君愛国の軍人を詠った

「谷村計介」の作詞に 自ら 曲を付け弾奏し 大好評を得ます

この音曲が 筑前琵琶の原形 だとも いわれているのです

この流れに 博多の政財界の名士たちも後押しをします

伊藤博文 や 金子堅太郎 その弟 金子辰三郎 そして

玄洋社総帥の 頭山満 など が

橘旭翁 や 吉田竹子 の 東京進出に 力をかします

筑前琵琶の五弦を 提唱したのは 頭山満だったという話も伝わっています

吉田竹子 は 加納熊次郎 が亡くなると 博多に戻り

筑前琵琶後進の育成に 力を注ぎ 多くの名手を育てます


大正12年 11月 博多の町で 多くの弟子に看取られながら

吉田竹子 は 52年 の 波瀾万丈の華やかな 人生を閉じます

竹子は 意識が遠のく中で 熊次郎 の姿を見つけたのでしょうか

『 旦那さん そばに行くのは 早すぎましたか 』

幽かに そう呟いて 目を閉じたと言います



加納熊次郎 と 吉田竹子

筑前琵琶を語るとき 忘れては いけない 二人なのです






# by nonkei7332 | 2017-03-15 00:37 | 博多ルーツ | Comments(0)


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尾方蝶嘉 さん




近くの 公民館で行われた

『筑前琵琶の歴史と演奏』という イベントに参加しました

講師と演者は 尾方蝶嘉 さん でした


尾方さんは

福岡県出身 福岡市在住

西南学院大学法学部卒

嶺青流筑前琵琶保存会 師範


日本琵琶楽協会会員

13歳より筑前琵琶を嶺青流流祖:嶺旭蝶、青山旭子に師事

琵琶による現代邦楽を田原順子に師事

洗足学園音楽大学現代邦楽研究所(20期)卒

2014年NHK邦楽オーディション合格

(NHKの邦楽番組に出演するのにふさわしい高度な演奏技術を有する)

(尾方さんの ホームページより)



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福岡が発祥の 筑前琵琶 です

歴史 を追いかけてみました


1200年前の話です 筑前には 琵琶を弾く 盲僧の系統があって

奈良の帝 の勅命で 佐理養 と 麻仁養 という 二人の 盲僧が

地鎮祭に呼ばれ 琵琶を弾奏したという 伝説があります

称徳女帝の頃 神護景雲2年(768)

四王寺山の麓 坂本に ひとりの男の子が生まれます

この子が17歳の時に 失明し 盲僧となって 修行を重ね

後年 九州盲僧群の中興の祖と仰がれる人となります

名前を 《 玄清法印 》といいます

筑前琵琶 の 始祖だといわれています

玄清法印 は 桓武天皇延暦4年(785)

6人の盲僧の弟子を引き連れて 比叡山に登ります

最澄 が 延暦寺を 開くにあたり 玄清達に「地神陀羅尼経」を

琵琶で奏でる事を 頼んだからだといいます

そして 長年 最澄を悩まし続けていた 悪蛇を 退散させました

三年後 坂本に戻った玄清は 成就院を建立し

嵯峨天皇弘仁14年(823) 58歳で亡くなります

こうして 筑前琵琶 は 盲僧琵琶 と 呼ばれて 後世に続いていきます

明治の中程まで 博多の町 では 人家の表に 荒神を祀っていました

祭りになると 盲僧達は 家々を回って荒神の前で琵琶を弾きながら

荒神の霊を 慰めては お布施をもらっていたようです

『荒神琵琶』とも呼ばれた 筑前琵琶 は


その後 「平家物語」などの 俗曲な 歌が作られていきます

「崩れ琵琶」と呼ばれる 新しい形式の 歌曲が 歌われるようになり

明治37年頃からは 博多の町が 筑前琵琶 一色に染まっていったのでした

博多に いくつかの 家元が生まれます

一丸智定師 (後の橘旭翁) の 〈橘流〉や 鶴崎賢定師の 〈鶴崎流〉

高野観道師 の 〈高野流〉 金時という芸名を持った 芸妓 吉田竹子の

〈吉田流〉など があります

名手と呼ばれた人といえば 高野観道師の娘 高野旭嵐 ・旭芳 姉妹 や

吉田竹子の弟子で 日露戦争後 東京で名を挙げた

高峰筑風 (娘は女優で有名な高峰三枝子)など がいます



尾方蝶嘉さんは 2013年に 旗揚げした

人形浄瑠璃を筑前琵琶で語るという日本で初めての試みである

『筑前艶恋座』の 琵琶浄瑠璃演者として

ますます 活躍の舞台を 拡げておられます










# by nonkei7332 | 2017-03-11 23:35 | 日記 | Comments(0)


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羽賀寺 木造十一面観音菩薩像





元正天皇 が モデル の 十一面観音像 です

福井県 小浜市 羽賀寺 の 本尊です

霊亀2年(716) 元正天皇 勅願によって

行基 が 創建したとされる お寺です

観音像は 像高 146.4㎝ 元正天皇の等身大の 御影 だといわれています

数ある 十一面観音像の中でも 艶やかな 美しさは 際立っています



生涯 未婚であった 元正天皇でした

ミステリアス な 生涯 でしたので その影に 見え隠れする

三人の 男性の姿がよぎります



ひとりは 〈長屋王〉であり

ふたりめが 〈橘諸兄〉であり

そして 三人めが 〈泰澄〉です



長屋王は 氷高皇女(元正天皇)にもっとも 近い存在でした

4歳年下になりますが 小さな頃から の幼馴染だったようです

皇女の方が 皇位は上ですが 婿としての 決して不釣り合いな相手ではなく

将来を嘱望された 皇族のサラブレッドだったのです

しかし 運命は 長屋王の相手に 妹の 吉備内親王 を選びます

長屋王は 元正天皇の元で 太政官をつとめ 側近中の側近として

元正治世の中心的役割を担います

神亀6年(729年) 藤原不比等亡き後

その意思を引き継ぐ 藤原四兄弟が 聖武天皇を抱き込み

長屋王を失脚させるという

『長屋王の変』が起こります

長屋王家(長屋王 吉備内親王 そして 子供達) は 殺されてしまいます

運命の人 長屋王との 別離は 悲痛の極みでした



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長屋王墓




《 降る雪の 白髪までに 大君に 仕へ奉れば 貴くもあるか 》

万葉集 3922


【通解】

降り積もった雪のように 髪が白くなるまで

陛下に仕える事が出来たことを思うと

ありがたいものでございます


天平18年(746) 正月 皇宮に雪が降り 雪かきに来た 側近たちに

元正上皇が 雪を題にして 歌を詠ませた時 左大臣 橘諸兄 が歌った歌です

この時 上皇66歳 橘諸兄 62歳

長屋王 亡き後 ずっと 側で 支えてきた もう一人の 男が

橘諸兄(たちばなのもろえ) です

諸兄 も 長屋王と同じ歳でした

氷高皇女の乳母をしていたのが 諸兄の母 橘三千代 でした

おそらく 小さな頃から ずっと側にいて

姉のように 慕っていたのでしょう

そんな 諸兄 を 上皇は 生涯 側に置いたのでした


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橘諸兄 の墓




さて 十一面観音像 が 元正天皇 をモデルとされるのは

そこに 白山信仰の開祖 泰澄 の 存在があります

泰澄 は 21歳の時に 朝廷から 鎮護国家法師 に 任じられていました

おそらく 元正天皇は この頃から 泰澄を知り

帰依していたのではないでしょうか

泰澄 は 霊亀2年(718)

夢の中に現れた貴女(白山神)の呼びかけにより

養老元年(719)

白山へ登拝し 頂上で 白山神の本地仏 十一面観音を体現します

実は この時 元正天皇 は 霊亀元年(717) 2年(718) と 二度にわたり

美濃養老を 行幸されているのです

そこの 美泉 がもつ若返りの効能に感心された元正天皇は

元号を「霊亀」から「養老」へ改元されています

泰澄の白山開山と 元正天皇の養老改元が 同じ年であったのです

偶然なのでしょうか 泰澄 36歳 元正天皇38歳 の時です

ここからは 私の妄想です

泰澄 と 元正天皇 は 何度か 会っていたのではないか

養老7年(722) 元正天皇が病に伏すと 泰澄は 弟子の浄定行者とともに

都に赴いて元正天皇の病の治療にあたります

その効あって和尚は護持僧として禅師の位を授けられ、

諱(いみな)を 神融禅師 と号したといいます

元正天皇 崩御の折には 御自らの髪と歯が 泰澄の元へ 送られたといいます

平泉寺墓地には「御歯髪塚」が今も 残っているそうです



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平泉寺白山神社








# by nonkei7332 | 2017-03-05 16:25 | 古代史 | Comments(0)